単なる井戸端会議 パート180

『甲子園』

(2022年 8月 1日 福嶋)

暑い日々が続いています。甲子園の季節ですね。私も高校球児でした。

当時の楽しい思い出やほろ苦い思い出は色々あります。クラブ活動も

しっかりと青春していたと思います。

 

中学では野球部がなく、高校で野球をしたいと思い野球部のある高校を

選びました。当時から大阪は高校野球のレベルは高く、その中でも私立

強豪7校は抜き出ていました。PL学園が全国的に有名になった頃です。

 

クラブ活動の目標は色々あるでしょうがやっぱり甲子園に行ってみたいと

いう気持ちが強かったです。親に相談をすると私立は学費が高く、私学へ

進学はNGでした。

 

先生に相談をすると学区内の公立高校で野球部があるのは三校だけで

そのうちの一校が当時大阪予選の決勝までいったという事でしたので

迷わずそこに決めました。

 

入部した時は三年生が3名、二年生が十名ほど、一年生も十数名だった

と思います。前回は幼稚園、今回は高校時代を思い出しながら野球部の

お話しをしてみようと思います。

 

『甲子園』

 

食べた物全てが汗に変わったくらい、よく食べて、よく練習をしました。

上下関係は厳しかったですが理不尽やイジメというような事は全く

ありませんでした。

 

一年生の時から守備やバッティングの練習もさせてもらいました。

二年生になって試合に使ってもらえるようになり、三年生では何とか

レギュラーが取れました。自分でいうのも何ですが器用貧乏で中途

半端な選手でした。

 

試合ではピッチャー、内野、外野とキャッチャー以外はその状況に

応じて守りました。バントのサインは三年間を通じて記憶にあるのは

最終戦の一回だけで打順の定位置は六番、足は速くもなく遅くもなく、

でした。

 

テレビで甲子園出場校のインタビューを見ていて毎日10キロ走りました

というので私もそれから同じように毎日走り込みをしました。その結果、

あまり自信がなかった体力や持久力がどんどん上がりました。

 

ただ、肩は鍛える事が出来ずにピッチャーとして登板した時には肩が

元に戻るまでに中一週間ほど必要でした。ピッチャーをする人達の肩の

体力や回復力は化け物だなと思っていました。

 

朝練して、早弁して、昼休みはグランドを整備して、放課後は練習で沢山

汗をかいて、石ころに躓いてこけたら立ち上がれないというほど走って、

腹筋のやり過ぎで腰を痛めてバットを振り切れなくなって、でもそのお陰で

流し打ちを覚えて、肩も壊してと色々ありましたが本当に充実して楽しい

クラブ活動でした。

 

自分達が三年生になる頃には勝率は八割を超えていました。それなりに

甲子園常連校や強豪とも渡り合え、いい試合をしていたと思います。

春の選抜をかけた二年生の秋季大会ではベスト8までいき、勢いと運が

味方してくれればと周りからの期待も多少なりとも感じるようになりました。

 

三年生になった夏の予選一回戦は先発投手で出場しました。自分達が

負ける相手ではないと高を括っていました。

自分達の攻撃で、1アウト満塁、クリンナップ、3ボール0ストライクで最低

でも押し出しで1点という場面で3球続けてストライク、結局一点も入らない

等、気がつけば中盤まで0対0の投手戦になっていました。

 

六回にヒットとエラーで2点取られその回の途中で投手交代しセカンドの

守備につきました。交代したピッチャーは調子が悪く連打をあび1アウト

満塁で再びマウンドに戻りました。

セカンドランナーのリードが大きく以心伝心でショートからけん制のサイン

が出ました。何度も何度も繰り返し練習したサインプレーで見事にタッチ

アウト、バッターもショートゴロに打ち取り何とか切り抜けました。

 

バッターボックスに入った時、両翼のフェンスまでこんなに遠かったっけ?

と思い、今まででこんなに疲れた試合を経験した事がありませんでした。

そのまま試合は2対0で終了し、試合後に沢山の涙を流して最後の夏が

終わりました。それからしばらくの間は抜け殻状態でした。

 

三年間同じ目標に向かって汗を流した仲間は一生の宝物で大切な時間で

した。甲子園には行けませんでしたがこの仲間と一緒で良かったと思って

います。もう一度高校生に戻れたら、やっぱり同じ高校で同じ仲間と甲子園

を目指します。